亀岡新丸太町線の歴史的背景

 京都市中心部と亀岡市・南丹市を含む京都丹波・京丹後に直結する基幹道路、トンネルで抜いて直線6km、時速60kmの速度で6分で到達します。亀岡の京都縦貫道の千代川インターにつなげば、例え長くても8km、時間にして10分以内で京都中心部、御所に到達できる「亀岡新丸太町線構想」は、決して私の突発の思いつき、俄にわか仕立てで提言しているものではありません。馬や徒歩で行動する時代において、過去の天下取りの戦いくさの歴史の中で先人たちが、因幡いなば・但馬たじま・美作みまさか・備後びんご・丹波たんばの国々(旧山陰道)から、京の都に最短距離で辿り着く究極の道を示してくれています。その証あかしとなる主な例を二・三挙げて見ますと、

 

○南北朝時代に示された亀岡から都への最短距離の道

一つは古く南北朝時代に遡りますが、明徳2年(1391)今から約622年前に強大な勢力を誇る山名氏清・満幸らの山名氏が室町幕府足利義満の挑発に乗って反乱を起こしたのが「明徳(めいとく)の乱」であります。山名軍の氏清(うじきよ)勢3000騎は堺から淀を経て幕府軍の拠点内野(平安京の大内裏)(御所)攻めと併せて、山名満幸(みつゆき)勢2000騎は丹波から内野(北御所)同時攻めの戦略で幕府倒幕を図るが、氏清勢は途中、河内守護代 遊佐国長らに阻まれたりして出遅れバラバラの攻撃態勢で内野に攻め入ったため大内義弘らの軍勢に緒戦に敗退した。一方、山名満幸勢は丹波から今の明智超えのル-トを辿り桂川の浅瀬を探すに多少時間はかかるが御所攻めを図るも幕府方細川頼之、畠山基国らの圧倒的な幕府の軍勢に敗退して同じルートで丹波に逃げ伸びた。この丹波ルートは戦国時代からも御所につながる最短ルートで丹波は都の搦(からめ)め手として都人から恐れられていたことが記述されています。山名氏も氏清・満幸両軍が一斉に攻撃できていたなら室町幕府も15代150年間も続いていなかったかも知れない明暗を分ける「明徳の乱」でした。

 

○明智光秀も本能寺攻めに使った最短距離の道

 織田信長に謀反の本能寺攻めを起こした明智光秀は、老いの坂、唐櫃(からと)超え(亀岡市篠町王子から嵯峨西芳寺(苔寺)に通じる道)、明智超えの三方攻めの一つ、明智超えは光秀の居城、丹波亀山城(亀岡)から保津・水尾を経て都に通じるルート、恐らく足利尊氏兄弟喧嘩とも言われている「観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)(正平5年(1350から勃発))」では、山陰道の盟主、山名時氏は足利尊(たか)氏(うじ)(北朝方)の弟、足利直義(ただよし)に加担して南朝方についており、この道は熟知している。明徳の乱でも山名満幸が利用した道と同じルートと考えられ、途中まで光秀ゆかりの愛宕詣での道ともう一つの領地であった近江の国坂本城への行き帰りにもこの明智超えを利用していたと伝えられており、古来からの都への幹線ルートの実証された道が私の言う「亀岡新丸太町線」です。

 

 私はこの構想の実現に30年かかっても良いと思っています。私たちはもういなかもわかりませんが、次代の未来のために、亀岡・京都市内双方からの避難路の確保、災害支援や復旧は双方どこからでも受けられる災害に強い京都に変わります。舞鶴港が日本の拠点港に指定されました。今後国によって港湾整備が進められたら日本海経由で世界から舞鶴港を通じて物流の経路が変わります。そうなれば京都縦貫道を利用して物資の輸送路の確保ができ、京都府下全域がバランスの取れる経済に強い京都が実現します。行政区が身近になることにより、子供から高齢者に対する福祉に強い京都が出来上がります。2012年7月15日の時間当たり100ミリ近い集中豪雨で、幹線道路が1箇所に集中している老いの坂峠の弱さが露呈し、交通が遮断され、9号線、京都縦貫道が4時間にわたって完全ストップしました。日常的な国道9号線の交通渋滞の緩和にも、老いの坂以外のWルートの実現により、安定した日常生活とあらゆる交通手段が選択できる観光資源に強い京都が生まれます。孫子の次代のために、テロや大事故にも強い京都、府民生活に豊かさを実感できる京都、これら実現のために、今ぜひ必要な特効薬はこれ以外にありません。歴史から学ぶ先人が切り拓いた「亀岡新丸太町線復活」を実現させること。これ以外に具体策があれば教えてほしいと思います。京都市と亀岡市、南丹、京丹波、京丹後市等々、京都南部地域も含めて、力を合わせてみんなで押し進めようではありませんか。そして「他を損じて己の益に非ず」慶長11年(1606)に保津川開削によって丹波の物資用材を舟運により流通革命を起こして京の都の発展を支え、また引き続き高瀬川開削により大阪までの舟運を拓いた京の三大豪商の一人、角倉(すみのくら)了以(りょうい)翁は、自分たちだけが良ければ良いという考えは商売だけでなく社会においても成り立たない。みんなが潤ってこそ社会は成り立つものだ。この精神を以(も)って了(りょう)とするとして、了以という自らの名前にその精神を刻み込んだものであります。未来の京都・亀岡のまちづくりを構築する上においても、この精神が是非とも必要であります。平成の角倉了以は果たして誰か。私はみんなの力で夢のある構想の実現を成し遂げたいと考えています。

歴史から学んで夢のある未来へつなごう。  西口すみお(純生)

 

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亀岡市議会議員
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